明治20年に創業され、100年以上の歴史を持っておられる貴社ですが、まずは創業から現在のアメリカン雑貨に至った経緯等を教えてください。
創業者の林庄太郎は江戸末期の生まれなのですが、実はあまり詳しいことはわかりません。
いつのころからか煙管の加工と販売をして生活を始め、明治20年に東区南久宝寺3丁目にて「林庄商店」として創業しました。
煙管やパイプから始まり、ライターからキャラクター雑貨、今は“アメリカン雑貨の林庄”ですが、いつの時代も「これがしたい」と開拓してきたのではなく、その当時その時々で知り合った人の求めているものに応えていくうちに現在に至った、という流れなんですよね。
「こういう面白いものあるよ」とご紹介いただいたものを、「これはあの会社さんにどうだろう」と繋げたり、「こういうの探してるねんけど」とご相談いただいたものを見つけてきてみたり、時流に合わせてやってきた感じです。
アメリカン雑貨だけでなく、実は色々な物があるので「おもちゃ箱みたい」ってよく言われます。
それでは林さまご自身の入社後、「林庄」という会社はどのような時代を歩んできたとお考えでしょうか?
僕が入った90年代は、みんな収集癖やこだわりがあって、プレミアムg-shockとかリーバイスの501とか、とにかく「あれが欲しい」「あれが買いたい」と物欲がある時代でした。
社内は沢山の物が溢れ、メンバーも雑貨が好きな人が集まっていて、純粋に「楽しそう」と思って入社しました。
アメリカやアジアに直接買付に行き、フリーマーケットみたいな場所で安く仕入れたものが、日本では高く売れたりしたそういう時代。
おもろかったし、楽しかったです。
僕が初めに勤務した東京店では、「向かいが空いたから借りるぞ」「裏が空いたから壁抜いて借りるぞ」「隣が出ていったから壁抜くぞ!」とどんどん増床していって。
そういう時代の中で、結果的に今に続く出会いがあって。
元々古本を扱っていたお客様の紹介で、書店さんやレンタルビデオ屋さんの店舗有効活用のために「雑貨コーナーを作りたい」と声がかかったんです。
ただ、異業種さんには既にPOSが導入されていて……。
当時は「ここからここまで300円各種!」状態でバーコードもつけていないし、そもそも単品管理なんてできていなかった状態だったんですが、今度はPOSレジの開発をしていた会社の方と知り合ったんです。
最初は「無理だー!」と言いながら、いろんな知恵をもらいつつバーコードも自分達でつけて、ちょっとずつちょっとずつ全部単品管理できるようにしていきました。
結果それができたことによって、遠隔にいながら各店舗の販売実績をいち早く確認できるようになり、「じゃあ次こういう商品を補充しましょう」と提案できるMDができあがって。
最終的に店舗を回る古本屋さん、商品確保や値付けのウチ、そしてPOSのシステム会社の3社プロジェクトになりました。
ただ、そういう時代もやがて成長がとまっていって。なんにでもピークというものはあります。
物が売れない時代になり、だんだんと店舗開発もできなくなって古本屋さんも倒産、プロジェクトもいつのまにか立ち消えてしまいました。
ウチはというと在庫もたくさんあるし、店も広げすぎたし、人もいるし……。
自分で小売業を初めてみたけれど、ラッピングもくちゃくちゃになるし、全然向いてなくて(笑
かなり時間をかけて縮小して、なんとか手が回るところに収めていったんですよね。
それと並行して、単品管理をやりだしたことがとっかかりで、今の主力となっている仕入れ専用サイトの「e雑貨問屋」に力を入れていきました。
インターネットで仕入れることができれば、24時間365日関係なくウチのカタログとしても見ていただけるから、地道に一個ずつ一個ずつ商品画像を集めて登録して……。
まだまだ他社の雑貨卸はバーコードを付けた単品管理をやっていなかった時代だったので、アパレルの卸サイトとかを見て、いいなと思ったところはどんどん真似して。
今でこそ効率よく作業を進められますが、当時はなんのためにやっていたかよく分からなかったくらいでした。
そもそも古本屋さんとPOSの会社との出会いが無ければ、やる必要もなかったかもですが、今となってはいち早く取り入れたからこそ生き残れたと思うので本当にやっといてよかったな、と。
現在は大阪の有名テーマパークで、唯一直接の納品管理をさせていただいたりしているくらい、物流のノウハウに関して自信がありますし、強みでもありますね。
様々な出会いがあって、今の貴社の強みになっているのですね。では、今後の“卸”という業種について何か考えていらしゃることはありますか?
いわゆる問屋不要論は一般的に叫ばれてますが、物を卸す以外にも提供できるものっていっぱいあると僕は思います。
例えばネットショップさんに納品する前に商品の画像データ、サイズや重量といった“情報”を、事前にお客さんのシステムが分かってればそれに合わせた形で提供することで、お客さんは自分の本業に専念できますよね。
他にもメーカーさんが市場調査をしたい場合、自分たちでやろうとすると母数や結果を集めたりするのが大変ですが、どちらにも繋がっている問屋は商品の動きだけでなくいろんな情報が集約されるので、「この人とこの人をあわせたら面白いビジネスが生まれるのでは?」といったマッチングもできると思います。
でも元々問屋ってそういうものですよね。
お客様に「問う」屋、御用聞き。
僕たちが売りたいものというよりも、世の中が求めているものに柔軟に対応していくというスタンスを取れるのが卸だと思います。
それでは大阪久宝寺町卸連盟は、林さまにとってどのような場所なのでしょうか?
僕自身はずっと東京に居たので、戻ってきても町に親しい知り合いもいませんし、「なんか誰かいないかなぁ…」という気持ちがあったんですよ。
そんな時「青経会にいくかー?」と声をかけてもらって。
※青経会とは:協同組合大阪久宝寺町卸連盟の組合員にして社長・専務・常務またはこれに準ずる青年経営者をもって組織すると定められた有志の組織。
実際入った当初はお食事会が主流でしたが、せっかくこういう縁で、同じような境遇で集まったので「“会長さんの特色”みたいなものをだしていきましょう」と先々々代からなって。
ちょうど5年くらい前から徐々に活動が変わってきて、今ではバーベキューに行くくらい仲良くなりましたし、勉強会などの活動もしています。
昔はそれぞれ専門性の高い商材卸をやっていたけれど、2代目、3代目は違う世界を見てきて、違う情報や人脈を持ってこの町に帰ってきています。
だからこそ、それぞれが持ち寄ったものを意見交換をしながらお互いにマッチングし合うこともできる。
どこかに所属していたほうが、一個人としてよりは紹介してもらえやすいし、紹介しやすいですね。
もちろん最後は個人の力が大事だけれど、その前にとっかかりとして、きっかけになる入り口を広げておくためには、団体に所属しているというのは少し優位かな、と考えています。
最後に今後続けていくこと、目指すこと等を教えてください。
同じことをずっとやってても、町も会社も面白くないし、どういう形であれ成長していきたいですね。
数字が上がるとか人数が増えるとか……成長がどういう形かは分からないけれど、5年後10年後に「これやっててよかったなぁ」と思えることにチャレンジしていきたい。
僕らの強みは、仕入先の口座数じゃなくて“人間関係という人的資産”があることだから、人を通して色んな意見をいただいて、本業とはちょっと違う関わりを持ったりもしながら、尚且それが新規事業とか収益に繋がるようになっていけたらいいな、と考えています。
この地でべったり生まれ育ったわけではないけれど、僕のルーツではあるし、祖父の家があった場所だから、その当時を思うとどんどん変化していることに寂しさを感じる部分もあります。けれど、変化しながらも久宝寺そのものを活用していって、新しい町の姿になった時に「こうなってよかったな」って言えるようになれば、とは皆どこかで考えてるんじゃないでしょうか。
卸だけじゃない町になっていってるからこそ、皆が参加しやすい団体に変化するために、例えばブランディングから見直してみたほうが面白いかもしれない。
今後は先輩方と、次の次の代との良い橋渡しができる役割になりたい、と考えています。
“できるやつ”ばかりじゃないけれど、集まってお互いできることを補いながら、というのが本来人間は好きなんだろうし、人との繋がりが大事。行き着くところはそこにしか無いんじゃないかな。